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【翻訳】幾千の傷による死(凌遅刑)- シリーズ「1年後」

この記事は「Death By A Thousand Cuts – 1 year later series」の翻訳です。 blog.uchujin.co.uk

誤字・誤訳等にお気づきの際はコメントなどでご連絡頂ければ幸いです。
リンクは、原文と同じものを付けていますが、Wikipediaなど、対応する日本語記事がある場合にはそちらにしています。


幾千の傷による死(凌遅刑

シリーズ「1年後」

日本を離れてから1年が経った。そこではちょうど10年と1日を過ごした。
日本を去るのがかなり遅くなってしまったし、最後の頃には日本と日本社会を大嫌いになった。私の身体も心も生活していけないほどに損なわれた。
1年経つまでは、帰国については一行たりとも書かないと決めた。辛辣な体験が落ち着いてゆき、願わくばバランスの取れた思慮深い批評に置き換わってくれる時間が必要だった。

帰国寸前に撮った短編映画「Not With A Bang」も良い説明になると思う。

長くて、本来あるべきようには首尾一貫していないけれど、なぜ日本を去ることにしたのかについて説明するところから始めたいと思う。他の誰でもない自分のために。

初めて日本に移り住んだとき、日本の文化について何も(あるいはほんの少ししか)分かってはいなかった。でも時が経ち、言葉と文化を学ぶにつれて、ゆっくりと日本と日本人を分かってきたような感じがした。徐々にではあるけれど、ベル型曲線の反対側を滑り落ち、だんだんと訳が分からなくっているような感じが強くなっていった。

日本語はまあまあ話せるし、税金は支払っていたし、日本の国土で罪を犯したこともない。そうしないだけの理由がない限りは丁寧で礼儀正しく振る舞い、尊重に値すると思える一部分だけでも文化を尊重するよう精一杯努力した。

そうして、最初の問題に突き当たった。およそ日本ならどこでも、外国人として日本文化のある部分を取り上げて批評や議論をしようとすると、「どうして日本を嫌いなの?」とか「好きじゃないなら出てけ」といった大声で迎えられるのだ。
議論の余地があることはほとんどなく、「これが日本だ。これが私達のやり方なんだ」という発言で行き止まりになってしまわないことよりも多いくらいだった。

さんざん書かれ、議論されてきたことだけど、日本語でforeignerを表す言葉「ガイコクジン」(外 outside 国 country 人 person)、そして普段よく使われる「ガイジン」(外 outside 人 person)は、少なくとも私にはoutsider(よそ者)に近いように思える。
全員ではないにしても、ほとんどの日本人は、そのニュアンスは(日本語に見られる他のあらゆるニュアンスとは違って)大事なことじゃない、「ガイジン」には私がいつも感じるような軽視の意味はない、と言うに違いない。
もしそんな風に受け取ったとしても、イギリス人やスペイン人、ナイジェリア人と言わずに単に「外国人」というだけでも、「私たち」と「他の人たち」に二分する態度が、この発展した世界において至るところで強く感じられる。
ある国で価値観が他のあらゆる人々よりもその国の人々を重視していても、いつも「よそ者」と呼ばれ、それが「外国人」を意味するというのは、どんなに好意的に見ても不誠実だ。


(タトゥー入りの男女の手の写真)
「あのドイツ人たち」

仕事場ではまた、日本の(成果主義とは正反対の)年功序列型評価制度と、慣習化している外国人恐怖症から生じる、じわじわと蝕むようないらだちに苛まれた。
年上で先輩なら誰であろうと、いつでも苗字に敬称の「サン」をつけて呼ばなければならなかった。「鈴木さん」は「Mr. Suzuki(またはMs. Suzuki)」と訳される。これは厳格な規則であり、誰が居合わせようと年下の従業員は誰ひとりとして鈴木さんをあえて下の名前で呼ぶことはなく、もしそんなことをすればひどいことになっただろう。でも、日本で働いたあらゆるところで、私はファーストネームの「エイドリアン」と呼ばれるか、かなり年下の従業員にもせいぜい「エイドリアンさん」と呼ばれた。
大したことないじゃないかと言うかもしれない。でも、繰り返しになるけれど、言葉のニュアンスがものすごく重要な国において、これは尊重の欠落と、いらいらする「私たち以外」の姿勢の現れだ。

日本で周りの人はよく歌舞伎町(東京の新宿にある歌舞伎町街区。そのオープンな性産業で有名で、それほどオープンではないけど麻薬売人が同じくらい有名なところ)は日本で一番危険なところで、その一帯を闊歩しているヤクザ(日本のマフィア)は怖くないかと訊かれた。
答えはいつも簡単だった。「ヤクザも歌舞伎町も怖くない。こちらから手を出さなければ手を出してこないだろう。警察?それは違う話だ。明らかに、日本で一番恐ろしいのは警察と司法制度だよ」。


(警官二人が男を取り押さえている写真)
「踊りませんか?」

制服や私服の警察官(policemen。93.2%が男性。それゆえ性差別名詞を用いる)はどこにでもいて、イギリスよりもずっとたくさんの警察官を日常的に見かけるだろう。(ロンドンでさえ、1週間に見かける数は自分の手で数えられるほどだけど、東京で同じ数ではお昼まで持たないだろう)。彼らはよく、日本人お気に入りの白いマスクで顔を覆い、バッジの番号を書き写そうとすれば隠してしまう。

ただ道を歩いて自分のすべきことに専念しているだけで、何度も立ち止まらせられ、だいたい3人以上に取り囲まれた。彼らはすぐそばに立ち、できる限り威圧的であろうとしていた。「ガイジンカードチェック」(原文ママ)と所持品検査ではだいたいこんな感じだった。


(警官二人がこちらを見ている逆光の写真)
「法律と戦った」

所持品検査は一般的だが、本来は、本人の同意、または令状と特定の法律違反を起こす恐れがない限り違法だ。これらを根拠にたびたび拒否してみたけど、「我々に法を振りかざすんじゃない!何か隠してるんだろう?」という反応と攻撃的な怒りに遭い、すぐに理解した。東京では世界のあらゆるところと同じく、たとえ彼らが法を破っていようと警察には異議を唱えないのが一番なのだ。

日本の警察は告訴がなくとも最長30日間、拘留でき、その際は外部との接触もできない。 アムネスティ・インターナショナルは、否認されているにもかかわらず、折檻や睡眠剥奪が拘留中の人々への常套手段になっていると述べている。
重傷を負わされたり、さらには拘置所で死亡するなどの事例が数多くある。
警察や検察官の尋問について(ごく限られた例外を除けば)録音してはいけないと法で定められている。
自白を後から法廷で撤回することは、たとえ被告人が強制されたとしても、できない。

もし日本人ならこれだけで十分恐ろしいだろうけれど、これだけの権力のある警察は、石原元東京都知事から3度も「外国人はみな怪しいと思え」と命令されている?(訳注:「三国人発言」のことと思われる。)

日本の有罪率は99%だ。

2009年、日本では、西洋の陪審員制度を骨抜きにしたような、重大な事件について審理する裁判員制度が導入された。だが、裁判長は裁判員の評決を拒否できてしまうのだ。
研究によれば、裁判員制度が適用された裁判では検察の求刑より厳しい判決が下ることも多いとのことだ。

日本は特別残酷な方法で死刑を持ち続けている。囚人にはおおむねたった数時間前に死刑執行が伝えられ、中には全く事前に知らされないこともある。家族や弁護士、一般の人々には、執行されてからしか通知されないのだ。

ヘイトスピーチの法律はなく、ようやく2016年5月に、国外出身者およびその子孫に向かう憎しみ(ヘイトスピーチ)の擁護を非難する、初めての法律が国会で承認された。(言い回しに注意。この法律がヘイトスピーチを違法としていると誤読しないように。ヘイトスピーチそのものを違法としてはいない)

東京でさえ、店やバー、施設で「外国人お断り」の看板が扉にあるのを見かけるのは珍しいことではない。多くの場合、所有者が日本語しか話せず、それゆえに外国人に配慮するのを「面倒」と考えているという背景において正当化されている。


(JAPANESE ONLY の写真)

日本は報道の自由度で180ヶ国中72番目だけども、インターネット回線が超早いので全世界の報道にアクセスするのは大したことじゃないはずだ。

ところが大したことなんだ。

日本における英語の水準は驚くほど低い。みな6年間も勉強しているにもかかわらずだ。正直言って、わざと低くしてるんじゃないかと思う。webへアクセスできても、その90%を占める英語がわからないので、中国式の検閲がいらないというわけだ。

[日本はまた、男女平等において世界で111位だ(去年の101位から下がった)。] (https://www.bccjapan.com/news/2016/11/japan-ranks-111th-gender-equality/)
性差別はいたるところで明白で、たぶん一番ののは、平均的な日本人女性のわざとらしい高い声と盲従にあるんじゃないかと思える。
女性への姿勢において、暴力的で性的なマンガよりも不快な描き方をしたものはないだろう。それはどのコンビニでも買えるし、公共の場で男性がおおっぴらに読んでいる。
高校生くらいの女性が、誘拐やレイプ、または虐待されたり、人間性を奪われたりしている画像に、実在する思春期の女の子が下着姿で扇情的なポーズをしている写真が散りばめられている。見たところ、日本では誰も気にしていないようだ。
[実在する児童のポルノの所持は、2014年まで違法ではなく、その法律もアニメやマンガは対象としていない。その上、違反者に対し、最長1年間、検挙される前に処分する猶予が与えられているのだ。] (http://edition.cnn.com/2014/06/17/world/asia/japan-child-porn-law/index.html) (訳注:「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」の「附則(平成二六年六月二五日法律第七九号)」によれば、単純所持の法律については施行から1年間は適用しないこととなっており、現在はその期間を過ぎているのでこのような期間はない。)


(少女のポルノ写真が並ぶ写真)

これまで訪れた国で、日本のように文化のエリート主義に身を隠している国はなかった。日本人は、すべて中国由来である建築や、伝統的衣装、箸、寿司、書記体系は、いくらか豊かだと思っているのだ。彼らは横領の達人だ。真顔でピザは日本のものだと言われたことは一度ではない。
ボーグ(訳注:スター・トレックで、同化・繁殖する機械生命体の集合体)を現実にしたような感じだ。

「タテマエ」(建て前:表向きの姿勢、公的な立場)では「私たちは欧米人より劣ってます。第二次大戦の被害者なのです」、「ホンネ」(本音:本当の意見、実際の意思)では「私たちは不潔極まる粗野な動物よりずっと優れている。同じ第二次大戦で少数民族の野蛮人たちを2000万人殺し、そんな奴らより優れているのだから、自分たちをアジア人とは呼ばない」。

日本人は、受け身で攻撃的な丁寧さの真の達人だ。唯一これのいいところは、攻撃的かつ攻撃的で非丁寧なやり方よりはいいということだけだ。

有名な日本語のことわざに「出る杭は打たれる」というのがあるが、これは恥を基本とした日本の文化をとてもよく表している。西洋ではアメで成功の(偽の)約束をするのとは対照的に、杭は失敗したり面目を失うことを恐れるのだ。

白人の中流の男性として自分に差別を向けられることもほとんどなく、優しいハローキティの形をした外国人恐怖症もイギリスの全然可愛くないバージョンを前にすると存在が薄くなるほどだということは喜んで認めよう。でも、不快さの程度は競争ではなく、どんな形をしていようと差別は差別だ。

日本で過ごす時間を通じて段々と分かってきた。外国人恐怖症の多くは悪意からというよりむしろ無知から生まれたのだ。

(表面的には少なくとも)世界で最も発展して識字率の高い国において、より良識のある21世紀の国々では嘲笑をもって迎えられるであろうその態度について、どう好意的に見ても、この無知は下手な弁解でしかない。

不快な悪意が存在しないと言おうとしているわけではない。それは疑いなくあるのだ。数えきれないほどあったが、例えば、人が並んでいて割り込むべきではないときにそれを丁寧にも指摘すると、すぐに返ってきたのは「バカガイジン」という怒りの言葉だった。
似たような人種差別的な言葉を使っている犯人に暴行を受けたことがあるし、同じ目に遭った人を何人か知っている。
それはイギリスではヘイト・クライムと呼ぶものだ。

10年住んだ場所だけど、決して故郷ではなく、決して故郷になりようもない。どれだけ上手に日本語を話せるようになろうと、どれだけ日本人のようになろうと努力しようと、完全に受け入れ、そのクラブにいることを許されることは無いだろう。

ただ毎日を生き延びようとすることで、軽いストックホルム症候群になり、その影響はいまだに残っている。

今は生まれた国に戻り、よく「東京の生活はどうだった?最高だったでしょ!」と訊かれ、困惑と落胆を顔に浮かべながらどれだけ嫌いか答えるしかなかった。「どうして?」と訊かれると答えるのは難しかった。大きな理由が1つあるわけではなく、むしろ(誰にでも読めるようにする以上に自分の精神衛生のため)ここに羅列しようとした「幾千の傷による死」だからだ。書き残したことがあるけど、それは忘れたか、記憶が真っ白になったか、説明や面倒な逸話があまりに長くなりすぎたからだろう。
例えば「サイクリング イン トーキョー」から始めさせようとするのはやめてくれよ。

日本ではたくさんの機会があり、日本での友だちに会えなくて心から寂しく思っている(ただし国は除く)。非常に有害な関係だったし、日本を離れる日に自分と約束を結んだ。二度とその地を踏まないと。

1年が経ち、固く約束を守っている。